市の沿革 市制施行記念誌 昭和45年(1970)
明治新政府のもとで、府県制が定められた当初は、もと代官支配地であった蔵
敷村などは韮山県に、旧旗本領であった高木村の一部などは、品川県の管轄下に
はいりました。
のち、廃藩置県により、明治4年から5年にかけて、神奈川県に編入されまし
た。
明治11年7月、郡区町村編制とともに北多摩郡に所属し、翌12年3月、芋窪・
蔵敷・奈良橋・高木・狭山・清水の各村に戸長および戸長役場をおきました。
明治17年7月1日、町村編制の改正によって、これまでの民選であった戸長を
官選に改め、高木村ほか5か村を一区域とした連合戸長制をとり、連合役場を高
木村に設けました。
明治22年4月1日、市制町村制が施行されると、高木村ほか5か村を結成し村
長・助役・収入役各1入をおきました。
ついで、明治26年4月1日、神奈川県から東京府に編入されました。
大正8年11月1日に至って組合村を廃止し、6か村を合併して大和村と命名、
旧村はこれを大字として残しました。
昭和2年3月、狭山丘陵の谷をせぎとめて村山貯水池が完成され、観光地とし
て一躍有名になりましたが、反面、町の面積の約4分の1にあたる約3・55平方キ
ロメートルの土地を用地に買収され、民家160戸が移転を余儀なくされました。
昭和13年には、町の将来の発展をかけた工場の誘致に成功し、南部の地帯約2
平方キロメートルに繁華な軍需工場街が形成され、町の財政も豊かになり、昭和
15年3月、奈良橋600番地に役場庁舎を新築移転しました。
戦時中は、町内にある工場の大半が爆撃で破かいされたため、終戦時の人日は
半減に近い状態となりました。
その後、着々と復興をみるとともに、新しい発展の拠点として、重要な役割を
果し、首都近郊村として、次第に都市的な性格を加えてきたので、昭和29年5月
3日町制を施行しました。
以来、大和町として発展を続けてきましたが、市としての要件を備えたために
地方自治法の一部改正とともに、昭和45年10月1日をもって市制を施行し、東大
和市となりました。
東大和市は、東京都内への1時間通勤圏にあるという地理的な面から、団地や
住宅の建設が相つぎ、首都東京の絶好のベッドタウソとして発展を続けていま
す。
表紙の写真は、発展する住宅街南街・都営高木団地・第2光ケ丘
団地を安田火災海上青梅橋寮屋上から望む。